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武道教育学入門

富樫理論の普遍性を自己追求する5

日本空手道無門会の原点と思想


(2)唯物論と観念論は互いに移行しあう
「唯物論」(ゆいぶつろん)「観念論」(かんねんろん)なんて書くと、最近の若者には「それは…?、何か大事な言葉のようではありますが…なんかよく分かりません…」
ということになるのではないだろうか。人間にとって「いま何が一番大切なのであろうか…?」と考えたとき若い10代、20代の若者は「お金、彼(彼女)、パソコン、ゲーム、学歴、つぶれない会社、働きやすい会社(フリーター)…」とかになるであろうし、若夫婦などは「夫(妻)、給料、子供、わが家(土地)、会社…」などになるであろうか、中年夫婦であれば「子供が良い学校に行き、良い職業を得て、良き伴侶を得て、幸せな家族を築いてもらいたいし、老後はなるべく夫婦健康で余り苦労も無く長生きしたいものだ」となるであろうし、老夫婦になれば「今となっては旧友、知り合い、親類で亡くなった方も多いが、子供、孫、ひ孫が仲良く生きてもらいたいものだ、私しゃ安心して死にたいよ」とでもなるであろうし、会社社長であればさらに「良い製品(物質的)を売って利益上げよう…」と考えるであろうし、宗教家であれば「良い精神(観念)を教授して会員を心地よくさせてやろう」と考えるであろうし、総理大臣や大統領であれば「自国の国家を発展させより良い社会を築こう」と努力するであろうし、国連の事務総長であれば国家間の争いを可能な限り少なくし、世界が平和でより良き地球を築こうと努力するであろう。
 世界のトップクラスの科学者であれば極限の宇宙論、素粒子論、クォーク論、DNA論の世界を一層切り開いていくに違いない。大学の教授であれば学生たちに限りなく「真理を追究する」ように求めるかもしれない。
「唯物論」(ゆいぶつろん)なんて書くと「…?」聞き馴れない奇妙な、訳の分からない思想や考えかた、また物ばかり重視する物欲思想「…?」のような、とにかく解答は明確にいえないが、「偏狭的な考え方」ではないか、とも考えるし、また「観念論」(かんねんろん)などと書くと頭だけで考え、何かの考えに縛りつけられているような「物よりも精神」が大切とばかり「奇妙な戦前の日本のような、何かに凝り固まった精神論のようなもの」を考えつくかもしれない。われわれはそうした七面倒くさいことを考えなくても一応は生きていけるのである。
 今回は直接われわれの日常とは関係ないが、しかし考えを突き詰めたりするとどうしても「何かに突き当たり」解答が出ない世界に入るときもある。「希望の大学に入りたい時」「家族が病気で死にそうな時、または死んだ時」「次々と活動や事業が失敗した時」「車や電車や船が崩壊し死にそうな時」「地震や火災で全てが崩壊した時」「とにかく不幸が次々と襲い個人ではどうにもならない時」苦しい時の神頼みではないが「神も仏もないものか!」と思うこともあるかもしれない。

唯物(ゆいぶつ)とは
 とりあえず今回は「広辞苑」(こうじえん)に書いていることを中心に進めよう。『「唯物」(ゆいぶつ)…ただ物質のみが真の存在であるとして、これを重視すること』(広辞苑)と書いてある。以後『枠』内の文章はすべて広辞苑とする。「唯物」(ゆいぶつ)というような事を普通に考えれば「世界は物のみである!」とか「世の中には物しかなく、精神や心などあり得ない、まったくない」といった心や精神の存在を否定するような極端な「唯物」という言葉にはついていけないというのは私だけではあるまい。何故なら「広辞苑」をみて認識を働かせて調べて「唯物弁証法」なる課題に取り組まんとしているのはこの著者(富樫宜資)であり、それをみて「フムフム」とうなずいたり「イヤイヤ」とか頭を振ったりして「目玉の奥にある精神、心、認識力」を動かし(働かせて)ている読者がいるのであるから、世の中は「人間の形をした動く物体」といっただけの「唯物」(ゆいぶつ)だけなんだとか、物だけだなんだというような人は、常識から考えていくととても決めつけ的で「オマエは人間じゃネエ」ということになるのかもしれない。逆に「唯物」に対する反語として「唯心」(ゆいしん)という言葉がある。

唯心(ゆいしん)とは
唯物という言葉があればそれの反語として唯心があっても不思議ではない。「世の中は物だけ心など関係ない!」という極論があれば、そうじゃないそうではなくて「世の中は心がすべてであり、実際の見えている物なんてニセモノで実際は何もないんだ!」という意見があっても不思議ではない。それでは調べてみよう。
みると仏教の思想から書いている。『一切の諸法は心の変貌したもので、心が唯一の実在であるあるということ。華厳経の中心思想、ただ精神ばかりが真の存在であるとして、これを重視すること。』
とある。
 これまた厳しい思想である。これでは地球や宇宙すらも否定されかねないまさに唯心の思想である。しかし唯心思想をさらに歴史的に研究し、体系化した思想がある。それが唯心史観(ゆいしんしかん)という難しいことばだ。

唯心史観(ゆいしんしかん)
『精神・意識・観念・理念など精神的なものを歴史的発展の根本動因とみなす観念論的立場の歴史観』…とある。人間社会は確かに人間の認識、心、精神が時代を切り開き新しい世界を築いてきたことは間違いない。しかし、それらが世の中のすべてであるとなるとやはり極論になってしまう。しかし人間の思考はとどまるところを知らず徹底的にそれを体系化し、一つの世界を確立していくことになる。そしてそれが学問の思想の一つの理論となるのである。
「唯心」が一つの体系化された世界として確立したのが「唯心論」(ゆいしんろん)である。これは人類がものごとを考え、数百年、数千年の間に確固たる学問の位置を確立し、仏教思想や欧州の哲学・宗教の中心思想となって精神的に多くの人類を支配していた時期があったのである。

唯心論(ゆいしんろん)
『世界の本体を精神的であるとする立場。認識論上の観念論の意味にも用いられるが、普通には「形而上学」(けいじじょうがく)の一立場。プラトン・ライプニッツ・ヘーゲルらはその代表者。』…とある。
 ドイツの大哲学者といわれるヘーゲルなども唯心論(観念論)であったのである。ここでまた難しい言葉に「形而上学」(けいじじょうがく)という言葉である。これも調べてみよう。

形而上学(けいじじょうがく)
『現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在の根本原理、絶対思惟により、或いは直感によって探求しようとする学問。神・世界・霊魂などがその主要問題。マルクス主義の哲学では、ヘーゲルの用語法に従って非弁証法的な思考方法を指す。即ち、事物を固定不変なものとして、他の事物との関連や変化を無視して、個々別々に孤立的に、とらえる思考方法。』…とある。
 現象を超越している「神や世界や霊魂」を主要問題として考えているのは哲学者だけではない。テレビ局でも「霊魂、幽霊話、神、宇宙人、円盤…」などちょっとした映像を元にいろいろ作り上げ2時間番組などで放映する時もある。そうした存在を肯定している観念的立場のグループとそれに対抗している大学の教授やタレントのグループなどの「そんなものは絶対信じない…」という唯物論的な立場の人たちと「幽霊は現実にいる、円盤は現実にいる…」と激論している番組が良く組まれる。これなども観点を変えて考えれば「唯心論」と「唯物論」との戦いかもしれない。それでは唯心論とは逆の立場に立ち、人間や社会の根本は物質なんだという立場を確立した世界を考えてみよう。「唯心史観」「唯心論」をかけば当然「唯物論」(ゆいぶつろん)があるのは当然である。

唯物史観(ゆいぶつしかん)
『マルクス主義の歴史観。物質的、経済的生活関係を以て歴史的発展の究極の原動力と考える立場。これによれば、社会的、政治的および精神的生活過程一般は、究極において物質的、経済的生活の生産様式によって規定され、しかもこの物質的基礎そのものはそれ自身の弁証法的発展の必然性に従って展開するものとされる。これと相反する言葉が唯心史観である。…』とある。
 やや現実的な言葉が並んでいる。ここに「マルクス主義」なる聞き馴れない言葉が出てくる。「マルクス主義」とは一体何主義であろうか。何か辞書を取り込む解説みたい になってきたが、一応本著では回りの優れた著作や人物の伝聞を演繹と帰納、総合と分析を行いながら歴史的に耐え得るような新たな教育や社会、政治、経済、武道…の有り方を考え築いていこうとするもので、基本から応用までサラリと書いていきたいと考えている。

マルクス
『「マルクス」…ドイツの経済学者・哲学者。1849年以降ロンドンに移住。初めはヘーゲル左派に属したが40年代に中頃、エンゲルスとともにドイツ観念論、空想的社会主義、及び古典的経済学を批判的に摂取して科学的社会主義の立場を創始、資本主義体制を批判し、終生国際的社会主義のために尽くした。著書「資本論」』
マルクス主義『マルクス・エンゲルスに始まるプロレタリアート解放運動の理論体系。哲学的基盤としての弁証法的唯物論、それを社会に適用して社会をその物質的土台から歴史的に把握する史的唯物論、階級社会の場での階級闘争の理論、資本主義社会の運動法則を解明する経済学説、国家を階級支配としての道具とみる国家論、労働者階級の革命運動の戦略・戦術、植民地・従属国の非圧迫民族解放の理論、社会主義・共産主義建設の理論等を含み、社会の発展、科学の進歩などによってその内容は常に創造的に発展するとの立場をとる。…』

新たな世界を切り開く迫力有る人生…
 唯心論から体系化した理論に仏教の華厳経があり、またドイツではヘーゲル哲学いわれるような体系を築いたヘーゲルのような大哲学者があらわれ人類の思想的支柱を築いた。さらにヘーゲル哲学を学んだマルクスは今度は唯心論とは逆に立場となり唯物論を築き、さらには当時の社会の構造を分析し新たな経済学を築いた…というのである。

唯物弁証法(ゆいぶつべんしょうほう)
『マルクス主義の弁証法。弁証法はヘーゲルにおいて観念論を基礎としているのに対して、逆に物質的なものの弁証法的自己展開を基本と見、特に否定と実践との契機を重視する。』
 ドイツの大哲学者ヘーゲルは唯心論、観念論でありながら弁証法なる学問を体系化したのであるが観念論であるがゆえにダイナミックな経済学が築けなかったようである。
逆にマルクスはまず唯物論(なによりもまず物質から始まる)から弁証法なる理論を切り開くことによって大変な理論を築いていったようである。多くの働く人々の味方になるような理論を築いた…というのである。唯物論からそんな高度な理論がどうして築けたのであろうか。恐らくヘーゲルの弁証法は基本的に相当正しい論理方法があったことは間違いない。マルクスはヘーゲルが体系化し築いた弁証法を学び(ヘーゲル左派に学んだ)、ヘーゲルのもっている欠点を見いだしヘーゲルの唯心論(観念論的)的弁証法 を唯物論的弁証法に切り替え、余計な部分を切り取り(発展的止揚、はってんてきしよう)、弁証法を徹底的に唯物論の立場で新たな世界を切り開いていった…とみるとマルクスまでの流れが見えてくる。さらに解説をみてみよう。

唯物論(ゆいぶつろん)
『精神に対する物質の根源を主張する立場。従って物質から離れた霊魂・精神・意識を認めず、意識は高度に組織された物質(脳髄)の所産と考え、認識は客観的実在の脳髄による反映であるとする。唯物論は古くインド・中国にも見られるが、西洋では古代ギリシャ初期の哲学者たち以来、近世の機械的唯物論(特に18世紀のイギリス・フランスの唯物論)を経て、マルクス主義の弁証法的唯物論に至るまでさまざまの形態をとって、哲学史上さまざまの形態をとって、哲学史上現れている。
通俗的方法としては、卑俗な処世法としての打算的・享楽主義的な態度を指す。』のような通俗的な唯物論では以前「ジョージ秋山」のマンガで「銭ゲバ」というのがあってその主人公が「世の中…銭(ぜに)ズラ!」という何か心に響く言葉があったがそこには現実的・打算的・享楽的思想があった。最近では青木雄二の「ナニワ金融道 」などは現実的・打算的、享楽的な思想に加えて==のような高度な本格的弁証法理論が導入された面白さがある。また==の「…意識は高度に組織された物質(脳髄)の所産と考え、認識は客観的実在の 脳髄による反映であるとする…」といった文章はさすが唯物論の思想だといえる。

世界に流れる二つの世界観
 人類の思想の財産として唯心論と唯物論が現在あることを理解することができた。しかし現実的問題として「唯心論のみ」という考えもおかしいし、また「唯物論のみ」と いう考えもおかしいのは事実である。唯心論を現実的問題として考えれば「心の中で何もない…と考えたら世の中は何も無いのだ!」なんぞと言うそばから強盗に「持ってい る百万円よこせ」と顔をブン殴られ、家に火をつけられ家族を殺されても「これはこうしたことが取られ火を付けられた家族を殺されたと考えなければ何も無いのだ」と唯心 論的に考えたら悲劇である。「事件を心に思う、思わない」とは関係なくそうした犯罪は事実あったということであり、事実は事実として客観的に認めなくてはならない。傷つき半死半生になった自分の体、失った愛する家族、失った貴重な財産、金品はどうなるのか。「心で何も無いと考えれば何も無い」とすれば強盗、殺人鬼、犯罪者はきっと喜ぶことであろう。「唯心論」の人間は何をされても目をつぶって心に何もないと思ったら何をされても何もしない連中だということになる。「唯心論」はまた人間の肉体以外にも地球上や地球上以外にも精神、心、神、幽霊、霊魂が常に存在し、人間や人間社会に影響を与えている…というのである。さらに大きく考えれば宇宙も地球も全ての物も「神的存在」がつくり出して、すべて神の流れにそって宇宙や人間が存在している…という立場で考えるのが唯心論や観念論がたどりつく世界になる。人間以外にありとあらゆる世界に目に見えない心や精神が存在する観念論の立場に我々はすぐに立つ可能性がある。現に「幽霊をみた、霊魂を見た」という人は数多く存在し、「宇宙人、宇宙船」をみたという人も存在する。もちろん唯物論の立場からそれらに対して「そんなものは科学ですべて証明できる。すべて人間の錯覚から起きた現象に過ぎない」厳しく批判する人も多い。とくに唯物論の立場に立つ科学者は最初から問題にしていない場合が多いようだ。

霊魂(れいこん)
『肉体のほかに別に精神的実体として存するものと考えられるもの。たましい。未開人の心意、特にアミニズムにおいて、事物の生命の根源であり、神秘的勢力を持ち、さらに多少とも人格性を有する存在。或る事物宿り、その事物そのものとして考えられるもの。(人間の場合は身体魂)と、遊離しているもの(遊離魂)とがある。なお、この観念は高等諸宗教にも形態を変え、洗練されて残存する。』

霊魂信仰(れいこんしんこう)
『霊魂の存在を信じ、その影響を畏れてこれを崇拝すること。』

アニミズム
『宗教に原始形態のひとつ。自然界のあらゆる事物が、生物と無生物とを問わず、生命をもつとみなし、それに精霊、特に霊魂観念を認める心意。またこれに宗教の起源を求める学説。精霊崇拝。』

唯物論と観念論は互いに移行しあう
「…精神こそ根本的な永遠的な存在であって、物質と呼ばれるものはその産物であるとする世界観を、哲学では「観念論」と呼んでいます。観念論と宗教とは、何らかのかたちで世界の創造を主張し、自然の背後に超自然的な自然の創造者を認める点で、本質的に一致しています。これに対して、世界は永遠の昔から存在したものであり、人間のいない時代にも世界は存在したのであり、つねに物質的に統一されていたとするならば、物質こそ根本的な永遠的な存在であって、精神と呼ばれるものは生物の発生以後においてはじめてあらわれた存在であり、物質の一定のありかたにおいてうみだされたものであるとする世界観が成立します。精神は生きた人間の脳髄のもつ機能であって、脳髄をはなれ人間をはなれて空間にただよっている「心霊」などというものは認めません。
 この世界観を、哲学では「唯物論」と呼んでいます。学者によっては唯物論も観念論も正しくないといい、どちらかが永遠なのではなく物質も精神も共に永遠であると主張して、いわゆる二元論をとなえる者がありますが、これは人間にしか存在しない精神を人間のまだ存在していない世界にもちだしたという意味で、観念論の一つの変種と見るこ とができます。また、物自体は創造されないがその性質や法則的な関係は精神の創造であると主張する者がありますが、世界の部分的な創造を肯定するのですから、やはり観念論の一つの変種にほかなりません。唯物論と観念論とは、このような対立した二つの世界観の名称であって、それ以外のものではありません。ことばの上から唯物論を物質主義や物欲主義と思ったり、観念論を理想主義や精神主義のように考えるのはまちがっています。また二つの世界観の区別も、ほかの物ごとと同じように相対的であって固定した絶対的な境界線はありません。すなわち唯物論は観念論に、観念論は唯物論に互いに移行しあうものです。…」(三浦つとむ「弁証法はどういう科学か」)

武道はどういう立場に立つべきか
 武道の道場の大かたには「神棚」がある。「香取神宮」(かとりじんぐう)「鹿島神宮」(かしまじんぐう)では軍神をまつって古来からの武人の信仰を集めていた。しかし 日本のあらゆる軍人、軍隊に信仰され神の御加護があった日本軍は1945年8月15日に敗戦し、日本は近代兵器を備えたアメリカ軍に広島と長崎に原爆を落とされ多くの 人々が一瞬に命を奪われてしまったのである。日本の神々はアメリカや欧州の神々に敗北した…ということになるのであろうか。戦前の天皇は現人神(あらひとがみ)であった。しかし日本の敗戦によって天皇は「人間宣言」をして現代は「人間天皇」の時代になっている。国家や人々が信じた神々のいる土地や国家が原爆や水爆で一瞬に崩壊する。消滅するということは有り得ないことではない。

仏神は尊(とうと)し、仏神をたのまず
 宮本武蔵(1584?〜1645)の「独行道」に「一、仏神は尊(とうと)し、仏神をたのまず」という言葉がある。当時(江戸時代初期)の日本の多くの人々には「神や仏を畏敬する心」が深く染み付いていたと思われる。極意書などにも仏教・神道思想の影響がみられるように、仏教や神道は命を賭けて戦う武芸者の精神的支柱の一つになっていたことは間違いない。しかし宮本武蔵は「神仏(しんぶつ)」は「尊敬するが」「勝負において頼らない、神頼みしない」といっているのである。
「五輪書」の内容も「観念論」的にでは無く、常に「唯物論」の立場で書き上げ、「武芸者」「武道家」の立場から「唯物弁証法」的に自己完成を築こうとしたようである。原爆、水爆の時代にあっても、一個人としての強さ、完成を目指さすべきである。学校においても会社、一般社会おいても、国家においても宮本武蔵的な唯物論の立場で考える必要があるようである。勿論マヤカシ・エセ武道であってはならないが…。
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