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武道教育学入門

富樫理論の普遍性を自己追求する4

日本空手道無門会の原点と思想


運動エネルギーとは何か
 近年の宇宙論は「宇宙膨張論」が主流である。我々の宇宙は100億年くらい以前に「高温、高密度の火の玉」が生じ、一気に爆発し、拡大し、膨張し、とにもかくにも無限に向かって拡大し続けているという…、これはほとんどの現代の宇宙科学者の定説になっており、宇宙の不変の法則のようである。その最初の爆発が「ビッグ・バン」(宇宙創成時の大爆発)だ。現時点ではビッグ・バン以後に無限の拡大に向かって宇宙は広がっているというこの宇宙論は非常に興味がわく。そのエネルギーとは何か。

これからの宇宙論
「…宇宙論は、1929年に宇宙膨張が発見されてから発達した20世紀の学問である。1980年後半からはハイテクが進み、観測技術が長足の進歩をとげた。その一例がハッブル宇宙望遠鏡である。地上では、大気の影響でよく見えない遠くの銀河を撮影して、昔の銀河には奇妙な形をしたものが多いことなどを発見した。今後はさらに高度な観測技術によって、宇宙は収縮に転じるのか、あるいは無限に膨張を続けるのか、また最初にできた天体は何かなどの宇宙論の重要な問題に答えが出せるようになることが期待されている」「宇宙論」(ナツメ社)
 この「宇宙論」の現代の限界認識と限界を破る認識が今後どう展開するのか専門家に任せるとして、宇宙膨張が今度は1000兆年の1000倍の時間をかけて収束にむかい、縮んで際限なく収縮していくというのも不思議なものである。これを唯物弁証法的に解釈するとどうなるのであろうか…。

一点に存在し、かつ同時に存在しないという矛盾
 この膨張宇宙論にしても、収縮宇宙論にしても宇宙の運動形態であるかぎり「一点に存在し、かつ同時に存在しないという矛盾である」(三浦つとむ)という論理から考えれば、無限の未来ではエネルギーは我々が認識する範囲をはるかに越えた極大、極小の中で我々の現段階の科学力をはるかに越えた姿に変えて新たなる宇宙の世界を形つくっていくに違いない。とにかく我々が生きていく範囲の間の数100年、数千年くらいで は現代の宇宙は存在し、かつ膨張し続けることは間違いないであろう。空手の技も一種の運動エネルギーである。人間工学、人間力学、人間武道力学、人間構造論…いろいろその学問的な名称をつけられるだろうが、空手の「攻撃技」は「一点に存在し、かつ同時に存在しないという矛盾である」ということは宇宙論の解明と同じである。

極小の世界の弁証法の「統一の理論」
 以前は超大国であった米ソのみが所有していた核爆弾も世界の人類の核兵器廃絶の要求の流れとは逆に、現在では多くの国が所有するようになった。その世界崩壊に通ずる化学兵器の基本構造は「ウラン235」に「中性子」をぶつけると次々と「核分裂」の連鎖反応をおこし「膨大なエネルギー」が放出される。これを利用したのが「核爆弾」(急激なエネルギーを利用)や「原子力発電」(ゆるやかなエネルギーを利用)だ。自然科学における極小(ミクロ)の世界の探求は、宇宙科学のような極大(マクロ)の世界の探求に通じ、我々の日常の生活へのさまざまな益、不益(広島、長崎への原子爆弾投下、核廃棄物…)を与えながらも多大な影響を与えてきた。この自然の力の法則は「17世紀のニュートンの万有引力の法則の発見は天上で働く力と地上で働く力の統一」であり「19世紀のマクスウェルの電磁気力の法則の発見は電気力と電磁力の力の統一」であり、「20世紀のアインシュタインの重力と電磁気力の統一の失敗」であり、そのアインシュタインの失敗を踏まえた「現代の電磁気力と弱い力と強い力と重力の統一の研究」が現代の自然科学のメインテーマとなっている。

対立物の統一に関する学問
 ところが唯物弁証法では『…弁証法は一言でいえば「対立物の統一に関する学問」であり、物事の本質そのものにおける矛盾の研究」を中心におく…』(「弁証法はどういう科学か」三浦つとむ)という学問であるから、このまさに最先端の量子力学、素粒子論も唯物弁証法の理論を具体的に知らなくても、歴史の流れの中で唯物弁証法の法則を活用していることが分かる。「最終理論に挑む天才ウィッテン…現在、世界の素粒子論のリーダーはかつてのアインシュタインもいたプリンストン高等研究所のウィッテンである。彼の父親は相対性理論で有名な学者であり、彼自身も小さい頃から神童の誉れが高かった。しかし彼はビジネスの世界で活躍したいという希望を持ち、最初はその方面の学部に入った。その後、物理の研究に転じ、超ひも理論やM理論などの研究と数学を 結びつけた功績で、数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞を受けている。最終理論と騒がれるM理論はウィッテンなどの天才の手によって明日にも完成するかもしれないシロート、逆に100年かかっても未完成かもしれない。TOE(TheoryofEverything:すべてを説明する理論)がいつ完成するか、待ち遠しい限りである」「素粒子論」(ナツメ社)

天才ウィッテン
 天才ウィッテンが自然科学の法則を完璧に解明するかしないかは分からないが私も非常に興味をもっている一人である。「原子核の構成要素の陽子と中性子をさらに分割することができる。と言うよりも、陽子と中性子は、クォークと呼ばれる物質からできていることが分かったのである」(ナツメ社)といわれるように極小の世界の解明はやがて「媒介物の統一」(唯物弁証法の法則)といわれるように、この自然科学、物理学の 範疇にあるだけでなく、その解明は社会科学や人間科学に発展とつながっていくことが必要である。

すべてが弁証法的な性格を持つ
 アインシュタインといえば若くして「一般相対性理論」を発見したが、後半生は先ほど書いた重力と電磁気力の統一に一生を捧げたが、「…結局失敗に終わったのは当時はまだ、「強い力」と「弱い力」の存在が知られていなかったことも、その一因とされる。…」(ナツメ社)当時若くして天才といわれたアインシュタインが理論的に行き詰まったのは「強い力」と「弱い力」の存在が知られていなかった…というだけでなく「唯物弁証法の法則」が自然科学の中であまり理解されていなかったからではないだろうか?
「すべてが弁証法的な性格を持つ」という言葉にショックを受ける読者は少ないだろう。そして武道空手道と結び付けて考える読者も少ないであろう。ウィッテンが「M理論」を完成するとすれば唯物弁証法的な理論を考えつかなければ解明できないだろうし、新なる天才の出現を期待しなくてはならないだろう。三浦つとむの文章は私が個人的に書くよりもあまりにすぐれているのでやや長いが読者の今後の革命的な発展を期待してそのまま書く。新たな富樫理論の展開の幕開けはここから始まったのである。
「…すべてが弁証法的な性格を持つ…こう説明すると非常に簡単ですが、実際に自然、社会、精神をつらぬく普遍的な法則性が正しくとらえられ体系づけられて、世界全体の一般的な連関・運動・発展の法則についての科学があらわれるまでには、多くの曲がりくねった過程が見られます。この「科学を弁証法と呼んでいます」が、こうした奇妙な名まえにもその数奇な歴史の後をうかがうことができます。それはまた後でお話しするとして、現代では、自然・社会・精神をつらぬく普遍的な法則性であることはもはや否定できなくなりました。科学の対象となる自然・社会・精神も、科学そのものも、すべて弁証法的な性格を法則性をもつことがあきらかになりました。人間は力学を知らない以前から力学的に運動し、日本語であることを自覚しなくても日本語を語っています。

人間は、弁証法が何であるかを知らなくても認識自体は弁証法的な性格を持っており、弁証法を自覚しなくても弁証法的な考え 方をしている
 同じように、「人間は、弁証法が何であるかを知らなくても認識自体は弁証法的な性格を持っており、弁証法を自覚しなくても弁証法的な考え方をしている」のです。科学の発展は、人間に弁証法を自覚させるようになり、物ごとを正しく認識するために、対象の弁証法的な性格に相応して自分の認識に意識的に弁証法的な性格を持たせるようになります。すなわち、個々のバラバな認識の結果を弁証法の助けをかりて概括し連関づけ、またすでに知られている対象の一面とまだ知られていない他面との間に弁証法的な関連のあるであろうことを予想して、これを道しるべとして道の世界へふみこんでいくのです。これが弁証法の適用です。

複雑な物ごとには複雑な弁証法的性格が存在している
 弁証法的な性格は、世界という建物の骨組に当たっています。単純な建物には単純な骨組があり、複雑な骨組には複雑な骨組があるように、単純な物ごとには単純な弁証法的性格が、複雑な物ごとには複雑な弁証法的性格が存在しています。単純な建物の単純な骨組は知っているが、複雑な建物を分解して複雑な骨組みを理解した経験のない人では、新しくぶつかった複雑な建物の全体の骨組を正しく見ぬくことはできません。同じことが、弁証法の研究についてもあてはまります。単純な物ごとから単純な弁証法的性格をとらえた経験だけでは、複雑な物ごとの研究の指針としては不十分です。

弁証法は対立物の統一の関する学問、矛盾の研究である
 弁証法を正しくとらえ、有効化する弁証法は一言でいえば「対立物の統一に関する学問」であり、「物ごとの本質そのものにおける矛盾の研究」を中心におくのですが、あらゆる物ごとが対立物の統一という性格を持っているとわかっただけでは一面的であり、至るところに矛盾があると知っただけでも一面的であって、建物にはすべてタテとヨコの骨組があると考えるのと同じことです。建物の部分によって骨組のかたちがちがい、組み合せに特徴があるように、物ごとの部分によって対立物の統一のありかたのちがい、異った矛盾の組み合せが見られます。これが正しくとらえられないかぎり、弁証法の知識はほんとうに有効性を発揮しえないのです。自然科学が自然を個々の部分に分解して研究し、あるいは熱について研究することは重要ですが、しかし、このことは現実の熱と圧力とが無関係であることを意味しません。富士山の頂上で飯を炊くと、普通の釜では沸騰点が低いためにうまくいきません。これは気圧が低いためです。逆に、高圧釜をつくって、内部の気圧を高くしてやると、普通の釜では得られない温度まで上げることができます。弁証法を矛盾とか、対立物の統一とか、否定の否定のとか、個々の法則について考えることは重要ですが、しかしこのことが現実の法則的な性格が別個に存在していることを意味しません。

弁証法が扱う法則的な性格は互いにつながり合っている
 弁証法の単純構造から複雑構造へ
 物理や化学の法則的な性格が互いにつながり合っているように、「弁証法が扱う法則的な性格も互いにつながり合っており」、自然の法則的な性格のつながりを発見するのが自然科学の発展であるように、弁証法で扱う法則的な性格のつながりを発見して単純なものから複雑なものへ進むのが弁証法の発展です。したがって経済学や物理学のように個別的な科学に革命的な発展が起ることは、これまで見られなかった複雑な建物が出現するのと似ていて、その中に複雑な骨組があることを想像させ、そこから弁証法を発展させる可能性を考えることができます。

科学の革命的な発展とは
 哲学者には出来ない…そしてこの弁証法の適用が、さらにほかの個別的な科学の革命的な発展をもたらし得ることは、ある建物の骨組に試みられた新しい工夫が、それ以前の建物を改築するにあたってよりすぐれたものへの改良を可能にするのと似ています。ここから、自然科学であれ社会科学であれ、科学の発展の最も高い段階で仕事をしている科学者や政治家であってはじめて弁証法を発展できるのだということ、哲学の本を読んでいるいわゆる哲学者には弁証法を発展させる仕事は不可能だということがわかります。…」「弁証法はどういう科学か」(三浦つとむ)

武道空手道の新たな道
古典的理論から出発
 1970年代武道空手道界では南郷継正が唯物弁証法を活用し、新たな武道空手道の道を開拓してきた。彼の功績は大きい。彼によって古典的な武道や空手道が一気に科学的なメスが加えられ最初の革命的な理論が構築された。特にスポーツ理論と武道理論の相違の理論は大変なものがある。武道空手道の理論も日本空手協会の中山正敏が築いた画期的理論の自由一組手理論を一気に突き破って「自由一本組手理論」を確立し一定の水準まで高めた。古典的な武道の世界の建築物から、現代的な武道の世界の建築物に建て替えられのに似て新たな道が切り開かれたといって良い。

アメリカの論理とは?
 それでは自然科学の発展で革命的な理論を次々と打ち出しているアメリカで何故武道空手道理論が切り開かれないのか?基本的にアメリカの国益に武道論が役に立つと思えないのであろう。第二次世界大戦、太平洋戦争の敗北は日本の伝統武道としての古典的な闘争術として認可するとしても近代戦でミサイルや原子爆弾が世界を崩壊する戦争で「何が剣道だ!?、空手だ!?」という近代戦に立ち遅れた格闘術の流れを直感的に感ずるものがあるのであろう。もちろん武道論が論理的に組み立てられない難解な論理構造であるゆえんもあるだろうが、「武道は礼儀的、哲学的」といった「形式的」な有効さは直感的に感じてはいるのであろうが…。なにせ武道の国の日本は敗戦国であり、いまだ軍事力でアメリカの傘下にあるのである。武道で極意を得た国が「弱い日本、敗戦国日本…」という奇妙な論理が交錯しているのである。「優秀な国らしき日本は…弱い?」南郷継正の理論にもう一度たちもどろう。彼の多彩な論理の中で最も重要である約束組手の論理をどう分析しているか、どこに限界があり、どこに構造的欠陥があるか…これを踏み越えない限り武道空手道の完成は有り得ないのである。最近の空手論や武道論や写真の羅列は基本的に完成するとか、極意を得るとかいった世界とは切り離して見るべきである。20年〜30年の歴史の中で誰ひとり完成できなかったし、これからも永遠に完成することはできないものである…と認識したうえで空手の突き蹴りを元気良く「エイヤー」とやることである。

組手の構造理論の停滞と限界
「約束自由一本組手…攻撃側、受け側を定めておき、上段突き、中段突きのどちらかを攻撃するかは自由で、攻撃は一本のみとする…田島弘」(三一書房、武道の復権より)
実はこの理論は中山正敏の空手理論を踏襲した理論で、基本的には中山理論を一歩進めた形になった。中山理論は「…自由一本は、両者とも自由に構えて、それぞれ任意の間合いをとり、攻め手は相手の攻撃の箇所を告げて、目標を思いきって攻撃する。受け手はその攻撃に対して、自分の習得した技を自由に使って、ただちに反撃する組手の練習方式…」と書いている。また道原伸司は「任意(自由)一本組手…互いに得意の構えで相対し、攻め手が「任意一本」と約束して、ともに機をうかがう。機をみて、攻め手は前蹴り、回し蹴り、正拳突きのいずれか一本の技で相手の上段・中段・下段のどの部分にでもよいから、正確に攻撃する。受け手は攻め手の攻撃を確実に受け、または流して防御し、攻め手の中段(上段)に正拳突きを極める。…」(「空手道」成美堂出版)

分からない空手理論
 読者はこうした理論がわかるであろうか。おそらく分からないであろう。この理論からどういう実戦の動きができあがり、どういう試合結果になるかも予想しえないであろう。そして南郷は「…約束組手には構造的に段階があります。まず、相手を目の前において基本通りに技を出す練習から始まって、技を崩さないようにしながら相手に技を使う段階になり、次のレベルとしては間合+技となり、それから相手の身体に隙を見つけての約束組手、相手の技を上達させるための約束組手などを経ることにより、約束組手の最高段階としての自由一本組手(これにも構造的に段階があるのは当たり前です)に取組めば半年くらいで(毎日練習したとして)充分に実力がつきます。そしてこの方式の練習は本当の強さを身につけたい人々にも充分に役に立つのであり、ただその期間の長短が問題になるのみです。念の為に付加しますが、〈これだけやればよい〉と言うのではありませんよ。…」(武道の復権、三一書房)と約束組手と自由一本組手の論理構造を明確に解答していない。武道の理論家といわれる南郷継正にしてこの程度なのである。この理論家、実践理論家、実践指導者…の不安定な不明瞭な理論の組み立て、構造的欠陥に対しては、いずれ数冊の武道空手道理論の著書を書いて明確な解答を必ずだすが、このような内容は物理学の分野における古典物理学レベルである…と断言しておこう。

弁証法の認識化、武器化
 弁証法、弁証法といってもその必要性を感じない空手家がほとんどである。「そんなものなんになるんだ!」と中身がない多くの空手家はスピッツのように吠えるかもしれない。唯物弁証法の訓練は空手同様に10年、20年とそれなりの訓練をしないと武器になりえない。

図 形
 「弁証法はどういう科学か」より
(A)自覚以前
          反映

     対  象     認  識
 
          応用
    (弁証法性)   (弁証法性)

(B)自覚以後
          反映

     対  象     認  識 

          応用   弁証法
    (弁証法性)   (弁証法性)

 この図形は実に大変な表現をしていると考える。これはわれわれ全人類への「三浦つとむの遺産」といって良い。
(A)人間は弁証法を自覚している以前であっても自然、社会、精神の「対象物」そのものも「弁証法性」を持っている…ということであり、人間は気が付かなくても「それなりに弁証法的な認識」をしているのだ!という人間の弁証法性を教えていると同時に、(B)のように「世の中に弁証法なるものが存在し、弁証法なる法則を活用してやろう」と自覚した場合、大変な科学者、政治家、研究者になりえる可能性がある…ということを教えているのである。日本の学校教育の中ではほとんど体系化した教えはしていないのであるから、弁証法に興味をもっている諸君は自分自らが苦労して勉強しなくてはならないのである。私はこの弁証法なる武器を武道空手道に活用し、多くの新しい発見をし、武道空手道の解明に役に立てることができたことに喜びを感じている。武道空手道と唯物弁証法を融合しながら新たな展開していきたい。

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