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武道教育学入門

富樫理論の普遍性を自己追求する2

日本空手道無門会の原点と思想


唯物弁証法と武道空手道との関係とは?
 唯物弁証法なるしち面倒くさい学問と、これまたしち面倒くさい武道空手道とのつながりとは何であろう?、一体両者合体するとどうなるのか、それが分かったからどうなるのか?…単純に強くなりない、相手を負かしたいということを考えるとそんなことはどうでも良いように思える。何でも手軽に簡単にできるに越したことはないからである。

1970年代前期
 唯物弁証法と武道空手道とどうつながりがあり、つながるとどう発展し、どう解決が見つかるのであろうか?、そういう疑問をもった20歳前後の私はそれが大いなる大河の流れになることを信じつつ、そのつながりの糸口を探していたものである。唯物弁証法なる学問に20歳前後の若者がどうして興味をもち、また武道空手道なる格闘技に興味をもったのであろうか?詳細は「富樫宜資自伝書」(福昌堂)にまかせて、読者の参考になる形で再考してみよう。例えば人間は生まれてくるとさまざまに自分の回りにある環境にいやがおうでもぶち当たる、幸福に生まれてくる場合もあれば普通に、また不幸に生まれてくる場合もある。そして通常では生まれたと同時に両親に出会い、やがて成長しながら自然や社会につながりがでてくる。自分の生まれた星とは何か、宇宙とは何か、人間とは何か、社会とは何か?といった素朴でありながら学問の初期的要求も出てくるというものであろう。
 そうした中で親の知識や学校の教育以外に何か、例えば社会の中に貫く普遍的な法則は無いのか、全宇宙に貫く普遍的な法則は無いのか、人間を貫く普遍的な法則は無いのか?といった疑問をもっても当然であろうというものである。これは恐らく小学校時代も、中学時代も、高校時代も、大学時代も多くの人々は初歩的にしろ、時には浅く、時には深く深刻に考える時期はあるはずである。ところがなかなか宇宙の書いた本をみても、学校で学ぶ国語や算数、数学を学んでも、高校で学ぶ倫理社会、大学の哲学、宗教にも明確な回答は出てこないものがある。確かに人生の問題は宗教が科学以前の人間学として多くを語ってその生きる道筋を書いている。しかし科学を否定しない流れで普遍的な法則という世界を、われわれはキチンとした学問の流れで学んでいないことに気が付く。「唯物弁証法…」この言葉を見たり、聞いたりした瞬間「?」と思う人がほとんどであろう。多面では「何だ〜主義か」と偏狭的判断する頭の固まった人間もいるカモしれない。
 しかし私が高校時代のとき、何か無意味な…、でもない、ハッキリ回答のでないような学校の勉強に何か嫌気がさし…というか、それまでの学校の勉強だけでは「私の知的要求は解決できない」、「俺はすべてを知りたい、何もかも知りたい…」という欲求が「爆発寸前」であった。
 日本とは何か、アメリカとは何か、共産主義とは何か?何も分からないまま「労働者、社会人、経営者…」なって良いのか?若者は多感である。恐らく多くの人々にもさまざまな疑問や問いかけがあるのと同様に私も相当多感な方であったろう。人生に迷う時もある、社会の疑問をもつこともある、人間そのものに疑問をもつこともある、しかし多くの主義主張を本質的に理解でき、多くの疑問を解決できる普遍的な法則というものはほとんどの国でも教えていないのである。もちろん個々の学問では法則性や普遍性を教えているが根本は教えていない。つまり「分からない事の多くは自分の能力で勝ち取っていかなくてはならないのである。」ここにこの社会の限界と無限の可能性があるといって良い。

唯物弁証法なるもの
 古くから愛用の「弁証法はどういう科学か」(講談社新書、三浦つとむ)を部屋のどこかで見失い、新に所々の本屋に探しにいったが、なかなか売っていない。たまたま手に入った本をみると「1997年10月10日第50刷発行」と書いてある。1970年前後に発見したこの本が西暦2000年のこの時代にも力強く売れているのである。30年経過してもしっかり歴史の重みに絶えて生き抜いていたのである。うれしいものである。読者も興味があれば「三浦つとむ」の一連の著書を買って人生の糧にしてもらいたいものとしみじみ思うのである。さてこのやっかいな唯物弁証法なる学問をどう理解して活用していけば良いのか?「金持ちへの道か、大統領、総理大臣への道か?」恐らくそうした道も切り開かれるカモ知れないし、「偉大なる教育者、科学者、政治家、改革者、武道研究者への道?」を切り開くカモしれない。私もそういう逸材が育ってくれればと切に願っているのである。
 唯物弁証法にはどういう役に立ちそうな理屈(理論)があるのだろうか?それでは逆に武道空手道には何が良く分からないところがあるのであろうか?まず空手は突き、蹴りを武器にして戦う格闘技だということはまずわかる。しかし、何の技を「何本」くらい繰り返すと「マスター」《量質転化の法則?》するのか、「相手の戦うときどういう技で、どう戦えば良いのか?」《対立物の相互浸透の法則?》、「単純に勝ちたいと思って戦って勝てるのか、何か勝つには勝つ法則があるのではないか?自分を捨ていないで自分が大きくなる道があるのではないか?」《否定の否定の法則》…また富樫理論は多くの予想をするが結構何か当たっているではないか?、何かある未来が見える法則を知っていて、それをうまく使って予測しているんじゃないか?…と長い付き合いの読者には多いことであろう。 それは唯物弁証法と武道空手道が富樫宜資という中で多くが融合し、認識の武器となって役に立ってきているという実績結果であろう。富樫宜資も日本空手道無門会も武道空手道と唯物弁証法の法則で大きく動いている…ということかもしれない。
金儲けや人生の問題や宇宙の問題は「弁証法はどういう科学か」とか「それぞれの専門書」にたよるとして、私はとにかく武道空手道という問題と唯物弁証法とのつながりから学問的価値としても道を探ってみたい。 読者は「空手は3カ月ですぐ強くなれます」といった本を欲しいかもしれないが、運動神経相当に抜群で物覚えの早い人は「入門者案内指導ビデオ・パート2」(6千円)でも購入し参考にすれば道場にこなくても「多少強くなる」ので理屈嫌いの人間にはそちらの方を進める。 三浦つとむの「弁証法はどういう科学か」を参考にして武道空手道と唯物弁証法のつながりを解くきっかけを考えてみよう。この作品の構成は
目次
1世界のあり方をどうみるか
〈1〉世界は弁証法的な性格をもっている
〈2〉唯物論と観念論とは互いに移行しあう
〈3〉学問は党派性をもち階級性に結びつく
2弁証法はどのように発展してきたか
〈1〉古代ギリシアからヘーゲルまで
〈2〉ヘーゲルからマルクスへ-唯物弁証法の成立
〈3〉現代はどうなっているか
3「対立物の相互浸透」とはどうゆうことか
〈1〉相対的な独立ということ-つながっていると同時につながっていない
〈2〉媒介と同時に直接性を含んでいないものはどこにも存在しない
〈3〉認識論と弁証法−その一、絶対的真理と相対的真理および真理と誤謬との関係
〈4〉認識論と弁証法−その二、精神的な鏡と物質的鏡
〈5〉認識論と弁証法−その三、世界の二重化と自分の二重化
〈6〉人間と自然との、および人間と人間との相互浸透
〈7〉社会の土台と上部構造との相互浸透
4「量質転化」とはどういうことか
5「否定の否定」とはどういうことか
〈1〉まわりみちということの重要性
〈2〉人間はまわりみちをとって生活している
〈3〉「否定の否定」は弁証法の基本原則である
〈4〉探偵小説と弁証法−「ぬすまれた手紙」の分析
〈5〉科学の歴史における「否定の否定」
6矛盾とはどういうものか
〈1〉矛盾には二つの種類がある-克服による解決と実現による解決
〈2〉世界は過程の複合体であり矛盾の複合体であるー根本矛盾と主要矛盾
〈3〉中ソ論争と矛盾論以上である。これを武道空手道的に三浦流の形に沿った形式で書くとどうなるであろうか?人間時には型にはまることも必要であろう。

「武道空手道とはどういう科学か」
目次
1武道空手道のあり方をどうみるか
〈1〉武道空手道は弁証法的な性格をもっている
〈2〉唯物論と観念論とは互いに移行しあう
〈3〉武道空手道は党派性をもち階級性に結びつく
2武道空手道はどのように発展してきたか
〈1〉古代格闘技から現代空手まで
〈2〉現代空手から富樫宜資へ-唯物弁証法的武道空手道の成立
〈3〉現代はどうなっているか
3「対立物の相互浸透」とはどういうことか
〈1〉相対的な独立ということ-つながっていると同時につながっていない
〈2〉媒介と同時に直接性を含んでいないものはどこにも存在しない
〈3〉認識論と弁証法−その一、絶対的真理と相対的真理および真理と誤謬との関係
〈4〉認識論と弁証法−その二、精神的な鏡と物質的鏡
〈5〉認識論と弁証法−その三、世界の二重化と自分の二重化
〈6〉人間と武道空手道との、および人間と人間との相互浸透
〈7〉社会の土台と上部構造との相互浸透
4「量質転化」とはどういうことか
5「否定の否定」とはどういうことか
〈1〉まわりみちということの重要性
〈2〉武道空手道はまわりみちをとって戦っている
〈3〉「否定の否定」は弁証法の基本原則である
〈4〉武道小説と弁証法−「いろいろな武道小説」の分析
〈5〉科学的武道空手道の歴史における「否定の否定」
6矛盾とはどういうものか
〈1〉矛盾には二つの種類がある-克服による解決と実現による解決
〈2〉武道空手道は過程の複合体であり矛盾の複合体であるー根本矛盾と主要矛盾
〈3〉格闘技論争と矛盾論といった流れであろうか?
「武道空手道」という言葉は「武道」といった一般論に変えても良いが、私は空手が特に専門なので「武道空手道」に限定した方が理論や技術がよりクリアーになる。読者にも安心して語りかけることがでる。武道空手道の精神構造や技術構造から武道をみつめた方がより読者にとっても理解しやすいように思う。とりあえず武道空手道と唯物弁証法との融合と接点の論文を誌上で思考してみよう。

まえがき
 武道空手道などというと何かまた難しい理論が続き、まったく強くなれないような理屈っぽい話のみに終始するような気乗りしない感じがするかもしれない。しかし日本の武道、特に剣道はその最強の至極の技術と精神境地の世界を「極意」といったり、また相似した世界では仏教の極致の世界を「悟り」「真如」といったりして、人間学としても大変な高い貴重な世界を築いてきた。しかしそれは日本の思想の権威、象徴のように思われているにも関わらず本格的な科学的な分析はなされていない。わたしは唯物弁証法を武器としながら、いままでの武道空手道の限界や壁を簡単にぶち破って学問的未知の分野に深く立ち入ることができ、新たな武道空手道の完成への道を築くことができた。そうした経験と実績から多くの人々に武道空手道の本当の高度な世界を理解して欲しいと考えこうした書くことにしたのである。

1武道空手道のあり方をどうみるか
弁証法を軽視すれば罰なしですまされないエンゲルス武道空手道を軽視すれば罰なしにすまされない
富樫宜資
〈1〉武道空手道は弁証法的な性格をもっている
科学的な方法への要求
 武道空手道という世界は基本的にはお互いが生命をかけあった戦いである。あらゆる無限の攻撃を考えた場合、それに対してどう戦い、どう生き抜くかを考えたとき、いい加減では相手に殺される、敗北するといった形で結果が表れてくる。スポーツ的な戦いは今日負けても明日勝てば良いという「失敗は成功の元」といった生き残り、勝利への道がまだ切り開かれているが、武道に限っていえば、真剣勝負ともなれば明日なき戦いであり、今その瞬間に負ければ殺されるという厳しい戦いの勝負構造がある。今日(きょう)、いまその瞬間の一瞬の戦いが最も重要なことになる。教養あふれる大学教授も政治家も優しい両親もかわいい子供も優しい恋人も凶弾、凶器、暴力で一瞬の内に生命を失うかもしれない。争い(ケンカ)で多少ケガをしても、多少体にすり傷をつくっても自分の生命を失うような敗北はしたくないものである。自分の頭や体を殴られて、戦いを知っていくというのは一部の人間に限られている。女子、子供、老人、虚弱者、小集団、小国家…一般的には戦いに不利な弱い存在は常に強い存在に脅かされ、強く生きる道も閉ざされがちである。小さい暴力から大きな暴力、そして生命を失うような危険な暴力は過去の時代から現代までそして未来もそう簡単に無くなりはしないだろう。「暴力を受けながら強くなっていく」なんてことはケンカ好きの人間に任せれば良い。「女子、子供でも何とか強くなる道、強くなる方法は無いのか?」といって考えられたのが「格闘技」「空手」「武道空手道」である。しかし格闘技、空手といっても動きが全部違い、何をどうマスターすれば良いか分からなくなってしまうことが多い。突き、蹴り中心の空手から、投げ、関節技、締め技中心の格闘技までさまざまあるが、それぞれに特長があり、研究するやりかたも違ってくる。一般論として「同じ技を何度も繰り返して一つの技を完璧にマスターする」(量質転化の法則)といったいろいろな技はあれども繰り返し練習の重要性はどの格闘技、空手でも変わらない。中途半端な習得であれもこれも覚えようとした場合、深みがないので深く立ち入った世界には通用しないことになる。空手にはその習熟度によって初心者の白帯10級〜1級の色帯、さらに初段から十段の黒帯まで完成度によって区分されている。少なくとも空手では二段〜五段くらいは上達したいものである。何でも初級からはじまり、中級、上級とあるが、中級くらいまでいけば社会には十分通用する場合が多い。運転免許も初心者一年目のドライバーがつける若葉マークがとれ三年、五年、十年とたってくるとベテランドライバーとなる。しかし普通ドライバーといっても運送や運転が商売になっているドライバーと自分の運転のために使用するドライバーとは量質とも運転の注意力、集中力が違ってくる。また「F−1」といった極限の車を運転するプロフェッショナルドライバーと一般道路しか走ることがあまりないドライバーとは量質ともに違っている。つまり物事を習得していくには、おおよそ何の世界でも初級、中級、上級とその道の極限の世界を追求するプロフェッショナルクラスがあることは常識となっている。
 プロフェッショナルでも分からないことがある。その道に入ると、おおよその世界はアマチュア的存在とセミプロ的存在とプロフェッショナル的存在の三段階の層になって成立していることに気が付く。プロフェッショナル的な存在でも多くの分野に別れている。例えば医者なども難しい病気などは各専門的な研究者でないと病原が分からなくせっかく直る病気も直せなくなるし、大学の研究も多くの専門的な分野に別れてくる。最近研究開発されているミクロ的な研究によって人間の生命の根本まで探り出すような発見が成され、いままで不可能とされたガンなどの難病にも革命的な研究開発が次々と成されている。
 その道を次々と開発するプロフェッショナル的な職業は科学の最先端であり、その世界の最高峰の世界を歩みながら、さらなる極限の世界を追求していく上ではそれぞれに常に次々と限界が現れ、大きな壁を突き壊すさらなる優れた頭脳の必要性が要求されるようになる。プロフェッショナル職業というのは人類を明るい方向に導くといった面では、解答を探り出す道は人一倍苦しくとも重要な貴重な存在であるといわなくてはならない。
 しかしそうしたその道のプロフェッショナルでも一歩外に出ればシロート的になり試行錯誤する場合も多い。近年社会を騒がせているオーム真理教の幹部の多くは日本でもトップクラスにはいる大学の科学の研究者であったり医者であった。これなども一つの道のプロフェッショナルでも人生の問題になると理解できなくなり、歪んだ宗教の信者になり、破壊活動や大量殺人者となって大きな社会的犯罪を犯すようになる危険な道は大学や企業、政治の世界にもあると考えなくてはならない。
また常識な見方であれば警察官や教師、医者は犯罪を犯さないまじめな職業であると考えられているが、そういう常識的な見方はおおよそは正しいが、一面危険な犯罪行為を犯しているということが近年次々と暴かれている。
その道のプロフェッショナルであってもこうした社会現象に背を向けてばかりではいけない以上、アマチュアはアマチュアなりに解答を見いだす道を、セミプロはセミプロなりに解答を見いだす道を、プロフェッショナルはプロフェッショナルなりに解答を見いだす道を考えだす必要がある。科学的武道空手道の研究はそうしたことに解答を見いだすヒントがあるのである。

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